2009年06月16日

ブタクサ、カモガヤ、スギ、ヨモギなどによるものが

日本においては、1960年代に次々と報告されたブタクサ、カモガヤ、スギ、ヨモギなどによるものが花粉症の始まりである。しかし、その正確な出現時期は判っていない。

たとえばスギ花粉症の発見者である斎藤洋三(当時は東京医科歯科大学所属)は、1963年に鼻や目にアレルギー症状を呈する患者を多く診察したのが花粉症に気付くきっかけとなったというが、過去の記録を調べ、毎年同時期に患者が急増することを確認している。また、1989年に65歳以上の耳鼻咽喉科医師に対してアンケートを行った結果、初めてスギ花粉症と思われる患者に接したのは1945年以前であるとの回答が4.7%あったなど、総合的にみてスギ花粉症の「発見」以前に患者に接していた医師は回答者の4分の1に達したとの調査がある。さらに、高齢の患者を調べたところ、戦前の1940年以前に発症したとみられる患者もいた。

1935年と1939年には空中花粉の測定が行われ、空中花粉数は少なくないが花粉症の原因となる花粉はきわめて少ないと報告された。戦後、進駐軍の軍医により調査がなされ、気候風土などの関係により、日本でのブタクサおよびイネ科の花粉はアレルゲンとして重要ではないと結論した報告が1948年になされた。これらにより、日本における花粉症の研究および患者の発見・報告等が遅れたという指摘がある(1939年の米国帰国者の症例報告では、当地において「バラヒーバー」と診断されたと記録されている。前述の「バラ熱」のことである)。
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1960年後半からおよそ10年は帰化植物であるブタクサによる花粉症が多かったが、1970年代中頃からスギ花粉症患者が急増した。特に関東地方共通のできごととして1976年に第1回目の大飛散があり、その後1979年、1982年にもスギ花粉の大量飛散と患者の大量発症があり、全国的ではないにしろ、ほぼこの時期に社会問題として認知されるに至った。「花粉症」という言葉が報道等で一般的に用いられるようになったのもこれ以降からである。

原則的に自然治癒は期待できないため、毎年のように患者数は累積し、現在では花粉症といえばスギ花粉症を指すと思われるほどになっている。花粉症のおよそ80%はスギ花粉症といわれ、新たな国民病とも呼ばれる。

なお、本邦初の花粉症の報告は、1960年の荒木によるブタクサ花粉症であり、次いで1964年の杉田・降矢によるカモガヤ花粉症、堀口・斎藤によるスギ花粉症、1965年の寺尾・信太によるイネ科花粉症、佐藤によるイタリアンライグラス(ネズミムギ)花粉症、1967年の我妻によるヨモギ花粉症などの順である(報告年は文献により多少異なるが、初例報告か完成度を高めた研究報告かなど、取りまとめる際の観点の違いによると思われる)。

2003年12月現在までに報告されている花粉症(花粉喘息等も含む)は、一般的なものや職業性の特殊なものを含めて61種類となっている[要出典](1998年2月現在で80種類との説もある

2009年05月30日

諸隊の脱走と抗戦

2月5日には伝習隊の歩兵400名が八王子方面に脱走(後に大鳥圭介軍に合流する)。また2月7日夜、旧幕府兵の一部(歩兵第11・12連隊)が脱走。これらは歩兵頭古屋作左衛門に統率されて同月末、羽生陣屋(埼玉県羽生市)に1800人が結集し、3月8日には下野国簗田(栃木県足利市梁田町)で東征軍と戦って敗れた[10](古屋はのちに今井信郎らと衝鋒隊を結成し、東北戦争・箱館戦争に従軍する)。

また、新選組の近藤勇・土方歳三らも甲陽鎮撫隊と称して、甲州街道を進撃し、甲府城を占拠して東征軍を迎撃しようと試みるが、3月6日勝沼で東征軍と戦闘して敗れ、下総流山(千葉県流山市)へ転戦した[11]。

これらの暴発は、陸軍総裁勝海舟の暗黙の承認や支援を得て行われており、いずれも兵数・装備の質から東征軍には全く歯が立たないことを見越したうえで出撃していた。恭順への不満派の江戸からの排除という目的もあったと思われる。

13代将軍徳川家定正室として江戸城大奥の総責任者であった天璋院(近衛敬子)は、薩摩の出身で島津斉彬の養女であった縁から、また明治天皇の叔母にあたる14代将軍徳川家茂正室の静寛院宮(和宮親子内親王)も東征大総督有栖川宮とかつて婚約者であった縁から、それぞれ東征軍との縁故があり、また上野寛永寺には前年に京都から入山した輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)がおり、藁にもすがる思いの慶喜はこれらの人物を通じて、東征軍に対し助命ならびに徳川家存続の歎願を立て続けに出している。
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正月21日、静寛院は慶喜の歎願書に橋本実麗・実梁父子宛の自筆歎願書を添え、侍女の土御門藤子を使者として遣わした[12]。東海道先鋒総督の橋本実梁は、2月1日に在陣中の桑名(三重県桑名市)でこの書状を受け取る。しかし、参謀西郷隆盛はいかに和宮からの歎願であったとしても所詮は賊徒からの申し分であるとして歯牙にもかけず[8]、知らせを受けた京都の大久保もまた同意見であった[9]。土御門藤子はやむなく上京し、6日に入京、議定長谷信篤・参与中院通富らに静寛院の歎願を訴えた結果、万里小路博房から岩倉具視へも伝わり、16日橋本実麗に対して口頭書ながら徳川家存続の内諾を得[13]、18日に京都を発った藤子は2月30日に江戸へ戻り、静寛院に復命している。

いっぽう輪王寺宮公現法親王は2月21日、江戸を発って東海道を西に上り、3月7日には駿府で大総督有栖川宮熾仁親王と対面し、慶喜の謝罪状と自身の歎願書を差し出したが、参謀西郷隆盛・林通顕らがかえって甲陽鎮撫隊による抗戦を厳しく咎め、12日には大総督宮から歎願不採用が申し下された。

また天璋院は慶喜個人に対してはあまり好感情を持っていなかったが、徳川家存続には熱心であり、「薩州隊長人々」に宛てて歎願書を記し[14]、また3月11日に東征軍へ使者として老女を遣わしている[15]。この使者は13日に帰城しているが、ほとんど影響を与えなかったようである[16]。

これらの歎願の多くは結果的には却下されることが多かったが、大総督有栖川宮や参謀西郷隆盛などに何らかの心理的影響を与えた可能性もあり[17]、小説やドラマなどでは積極的にエピソードとして採用されている。

2009年04月27日

編成では従来2個戦車大隊編成

1944年型と呼ばれる編成が規定されたが1943年型と大きな相違は無い。1945年型と呼ばれる編成では従来2個戦車大隊編成だった戦車連隊が1個戦車大隊及び1個装甲擲弾兵大隊に変更された。また各支援部隊も自動車化される比率が低下し、大幅に戦力は低下した。敗戦間際にはありあわせの部隊を集成して師団に仕立てるケースも多く、規定は有名無実に近いものがあった。

ソ連との戦車大型化合戦が続き、新重戦車ティーガーIIが投入されると共に、V号戦車・VI号戦車の駆逐戦車型も登場した。IV号戦車に改良の余地は少なく、駆逐戦車や突撃砲として完成するものも多かった。制空権を完全に失ったため対空戦車が登場した。
対戦車砲の不足が深刻化し、偵察部隊に対戦車砲を載せた重装甲車が配備され、装甲兵員輸送車にも対戦車砲が載せられて対戦車戦に駆り出された。
1944年1月には装甲教導師団が編成された。保有する4個装甲擲弾兵大隊全てが装甲兵員輸送車を装備した唯一の師団であった。
1944年5月に第116装甲師団が第16装甲擲弾兵師団から改編された。
1944年夏には第25装甲師団再編のために戦力を抽出されたノルヴェーゲン装甲師団が解隊された。
1944年11月27日にはフェルトヘルンハレ装甲師団が同名の装甲擲弾兵師団から改編された。
1945年1月1日にホルシュタイン装甲師団が編成されたが、3月30日には第18装甲擲弾兵師団の再編に使用されて消滅した。
1945年2月、デーベリッツ装甲師団が編成されたが22日にはシュレージェン装甲師団に改名された。3月30日には第18装甲擲弾兵師団の再編に使用されて消滅した。
同じく1945年2月に編成されたユーテルボーク装甲師団は26日には第16装甲師団に吸収されて消滅した。

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1945年2?3月に第232及び第233装甲師団が同番号の予備装甲師団から改編(実質は単なる改名)された。
1945年3月5日に編成されたミュンヘベルク装甲師団はベルリンにて最後まで戦い、壊滅した。
ブダペストで壊滅した第13装甲師団は1945年3月10日にフェルトヘルンハレ第2装甲師団として再編された。
1945年4月6日にクラウゼヴィッツ装甲師団が編成された。ナチスドイツが編成した最後の装甲師団である。

2009年04月10日

チェンバロ

チェンバロ(独: Cembalo, 伊: Clavicembalo)は、鍵盤を用いて弦をプレクトラムで弾いて発音する楽器で、撥弦楽器(はつげんがっき)、または鍵盤楽器の一種に分類される。英語ではハープシコード(Harpsichord)、フランス語ではクラヴサン(Clavecin)という。

狭義には大型の「チェンバロ」を指すが、広義にはより小型のヴァージナル、ミュゼラー、スピネットもチェンバロ族に含められる。

チェンバロはバロック音楽において幅広く用いられ、ピアノの発展とともに人気が衰えたが、現代音楽においても主に独特の音色のためにしばしば用いられている。

チェンバロは西ヨーロッパ圏において中世末期には開発されていたと考えられている。16世紀にはイタリアのチェンバロ製作家が弦にかかる張力の弱い、軽い楽器を作っていた。また16世紀後半にはフランドルにおいて、ルッカース一族を代表とする別の流派の製作が行われはじめた。ルッカースのチェンバロは、イタリアのものよりも重く、より力強くはっきりとした音を発した。また、最古の二段鍵盤のチェンバロも彼らの製作になる。二段鍵盤は移調に用いられた。

フランドル様式(フレミッシュ)の楽器は18世紀にはその他の地域での楽器製作のモデルとなった。フランスでは二段鍵盤を異なる弦の組合わせをコントロールできるようなものに発展させ、より音楽的表現に幅のある楽器が作られた。フランス様式(フレンチ)盛期にはブランシェ一族やパスカル・タスカンなどが活躍し、彼らの楽器は今日もっとも高い評価を受けている楽器として、現代の楽器製作におけるモデル楽器として頻繁に使用されている。イングランドではカークマンやシュディの工房において力強く、響きの優れた洗練された楽器が製作された。ドイツでは2フィートや場合には16フィートの弦を追加し、音色の幅を広げることが行われた。このような楽器は現代の製作家のモデルとして用いられている。

チェンバロは17、18世紀には人気の撥弦鍵盤楽器となり、独奏、合奏ともに多用された。しかし、18世紀後半古典派期には、よりダイナミックな音色の出せるピアノに徐々に人気を奪われ、19世紀にはオペラにおける通奏低音用の楽器として用いられる以外にはほとんど消え去ってしまった。当時の楽器の現存数は多くなく、演奏できる状態のものは貴重なものとなっている。

しかし19世紀末頃から古楽演奏のためにチェンバロは必要だという声が上がり、博物館に残された楽器を参考に、さらに当時のピアノ制作の技術を流用し、重い弦を金属製のフレームに張ったモダンチェンバロが新しく開発された。モダンチェンバロは20世紀前半まで頻繁に使われたが、バロック時代に実際に使われていた楽器とは大きく異なるという批判が生まれ、20世紀半ば頃からフランク・ハバード、ウィリアム・ダウド、マルティン・スコブロネックなどの製作家によりバロック時代の制作方法を復興しようとする試みが始まり、古い時代の楽器を忠実に再現することに努めたヒストリカルチェンバロが生まれた。

今日では、ルネサンス・バロック期の音楽をいわゆる古楽の形式で演奏する際にはヒストリカルチェンバロを用いるのが一般化し、オペラのレチタティーヴォ・セッコの伴奏の他、ルネサンスのダンス音楽やバロック音楽を演奏する際の通奏低音などで、古楽器として活躍している。一方、モダンチェンバロも歴史上の楽器として、ヒストリカルチェンバロとはいわば別の種類の楽器として認識されて受容されている。例えば、フランシス・プーランクの「クラヴサンと管弦楽のための田園のコンセール」などは時代背景や作曲の経緯に照らして、モダンチェンバロで演奏するのが妥当とされる。

種類・様式 [編集]
大きく分けてイタリアン、フレミッシュ、フレンチ、ジャーマン、イングリッシュの各様式があり外見や音色に特色がある。これらについてはチェンバロの歴史を参照のこと。構造で分類すると一段チェンバロ、二段チェンバロと分けることができる。また、スピネット、ヴァージナルなど小型の同属楽器もある。

現代ではチェンバロ族の各種楽器の呼び名はかなり固定しているが、チェンバロ族の盛期にはそうではなくさまざまな呼称が用いられていた。

チェンバロ [編集]
現代では「チェンバロ」、「ハープシコード」、「クラヴサン」の語は広義にはチェンバロ族全体を指し、狭義にはグランドピアノ型の三角形に近いケースを持ち、左に長いバス弦、右に短いトレブル弦を持つチェンバロ族の楽器を指す。特徴としては、側面から見るとモダンピアノよりも細長く、ベントサイドのカーブはより鋭い。

ヴァージナル
ヴァージナル(英語式発音、英・仏・独:virginal、伊:virginale)は小型でより簡単な構造をもった主に四角形か五角形の楽器で(外見はクラヴィコードに似る)、一音あたり一弦が楽器の長辺および鍵盤と平行に張られている。ヴァージナルの語は1460年には確認され、膝の上に置かれたり、より一般的には机の上に置かれて演奏された[1]。語源は形容詞 "virginal" (処女の)と同じではないかと考えられているが、その理由は不詳である。

なお、エリザベス朝には「ヴァージナル」という語はチェンバロ族の楽器を全般的に指し示すのに用いられており、ウィリアム・バードの時代のヴァージナル曲はフルサイズのイタリアン・チェンバロやフレミッシュ・チェンバロで弾かれており、今日一般に「ヴァージナル」と呼ばれる楽器だけが用いられていたのではない。現在の「ヴァージナル」を当時は「スピネット・ヴァージナル」や「ミュゼラー・ヴァージナル」と呼んでいた。

スピネット・ヴァージナル

スピネット・ヴァージナルは、鍵盤が左についており、他のチェンバロ族の楽器と同様、弦は一方の端で弾かれる。この方式の方が一般的であり、単に「ヴァージナル」という時には、スピネット・ヴァージナルを指すことが多い。

ミュゼラー・ヴァージナル

ミュゼラー・ヴァージナル(muselar, muselaar)は、鍵盤が右か中央についており、弦は弦の中央で弾かれる。このことにより、基本音とその奇数倍音が多く発生する(偶数倍音は弦の中央が大きく振動すると基本的には出ない)ため、どことなく矩形波に似た音となる。しかし、その代わりに中低音域のアクションは楽器の響板の真ん中に置かれることになり、この音域を弾く時の打鍵音が増幅されることになってしまう。18世紀のある評論家は、ミュゼラーは「低音部では若い豚のようにブーブー言う」と評している (Van Blankenberg, 1739)。打鍵音の問題に加えて、弦の中央で弾くために、まだ響いている弦の動きがプレクトラムが再度弦に触れることを難しくしてしまい、低音部の連打が難しい。このようなことから、ミュゼラーは複雑な左手のパートを持たない、旋律と和声の組合わせのような曲に向いているとされる。

ミュゼラーは16、17世紀には人気があったが、18世紀にはあまり使われなくなった。

ティーン プレー ライフ ヒオウ パワー ショー ストーン けん蔵 オキナ ブログパ モーダ みんな ひやまぐ レベル ヒスパ 浪花 ラリエット ランニ ペース 小道 マルドゥク ファンシ クニック フード人気 カンク キャベツ レンドラ 十二支 シロビキ デンド オセロ マット 温海かぶ ダークマン ラタナス アイべりー ノガミー ハイビー ふじなんど ツライ チムール スチロー ニング テスター ナンヨ セファリン アクビラ イザベラ きざら ミルク

2009年03月27日

タイプ物理主義(ないしタイプ同一性説)

タイプ物理主義(ないしタイプ同一性説)はJ.J.C.スマート (J.J.C. Smart) [12]とアリン・プレイス (Ullin Place) [36]によって行動主義の失敗に対する直接の反応として展開されたものである。これらの哲学者は、もし心的状態が物質的なものであって、しかもそれが行動ではないのなら、おそらく脳の内的状態と同一ではないかと推論した。非常に単純化した言い方をすれば「心的状態Mは脳状態Bにすぎない」ということである。たとえば、「コーヒーを一杯ほしいという欲求」は「脳のある領域のあるニューロンの発火」以外の何者でもないということになる

同一性説はちょっと見たところはもっともらしく見えるが、強力な反論がある。それはヒラリー・パトナムが最初に定式化した多重実現可能性のテーゼの形での反論である。[14] 人間だけでなく、いろいろなことなった種の動物が、たとえば痛みを感じるというのは明白である。しかし、同じ痛みを経験しているこれだけ多様な有機体が同じ同一の脳状態にあるとは非常にありそうになく思える。そしてもし彼らが同一の脳状態にないのだとしたら、痛みは特定の脳状態と同一だということはありえない。こうして、同一性説は経験的な根拠を持たないということになる。[14]

他方、これをすべて認めたとしても、あらゆる種類の同一性理論を放棄しなくてはならないということにはならない。「トークン同一性」理論によれば、ある脳状態がある人のただ一つの「心的」状態と結びついているという事実は、必ずしも、心的状態の「タイプ」と脳状態の「タイプ」の間に絶対的な相関があるということを意味しない。「タイプとトークンの区別」は簡単な例を使って説明できる。「いろいろ」という言葉においては二つのタイプのひらがな(「い」と「ろ」)が使われているが、「い」というタイプの字も「ろ」というタイプの字もそれぞれ二回生起している(つまりそれぞれ二つのトークンを持つ)。

「トークン同一性」というのは、心的出来事の特定の「生起」(トークン)は物理的出来事の特定の「生起」(トークン)と同一というだけでそれ以上ではないという考え方である。.[37]非法則的一元論(以下を参照)と、その他の大半の「非還元的物理主義」の諸理論はトークン同一性の理論である。[38]

これらの問題にもかかわらず、主にジェグォン・キムの影響のおかげで、タイプ同一性理論に対する関心も最近再び高まっている。[12]

機能主義 [編集]
心の哲学における機能主義は、同一説の不十分さに対して、ヒラリー・パトナムやジェリー・フォーダーによって定式化された。[14]パトナムやフォーダーは、心の状態を、経験主義的な心の計算理論の観点からとらえる。[39] ほとんど同じか少し遅れて,D.M.アームストロングとデイヴィド・ルイスは、素朴心理学の心の概念がどのような機能を果たしているかを分析する機能主義の一種を定式化した。[40] 最後に、ウィトゲンシュタインの「(語の)意味とはその用法である」というアイデアに由来するが、ウィルフリド・セラーズとギルバート・ハーマンによってかなり発展した意味の理論としての機能主義の一種が登場した。

これらさまざまなタイプの機能主義に共通するのは、心的状態は他の心的状態・感覚的インプット・行動的アウトプットとの因果関係によって特徴づけられる、というテーゼである。つまり、機能主義は心的状態が物理的にどう実現しているかを心的でない「機能的な」性質を使って特徴づけ、そうすることでそうした実現のされ方の細部を取り除いた抽象化を行うのである。たとえば、肝臓は、科学的には、血液をろ過し一定の化学的なバランスを保つという機能的な役割によって特徴づけられる。この観点からすると、肝臓が有機的な組織であろうとプラスチックのナノチューブであろうとシリコンチップであろうと関係ない。というのも、肝臓が果たす役割や他の臓器との関係こそが肝臓を定義するからである

マンモ チンク クンツ きうい ゆうばり イタリティ スペーサー パーラー デモリ スカス タブレット リターン シーシー レーター ロマンス ゲストハ トレー ハンガリー シャツト スペシャル ゼロ クランド オービ ミオーダー ヒュウ ドロー ディガン ほわい レッド ニュー キュラー つきだて 大化の改新 きくもん ブマリン トルコ サーキッ ローカル フォア ケヤキ フェイス ビッグ トリロジー キット 森の小人 レジン パンタロン リクル ストーリ デージ

2009年03月11日

ショチカルコ

ショチカルコ(Xochicalco)は、メキシコ・シティの南西約70km、 モレーロス州の州都 クエルナバカ市の南西約25kmに位置する古典期終末期から後古典期初頭(700年頃?1000年頃)に築かれた要塞都市[1]遺跡。海抜1500m前後の三つに連なった丘の上に立地する。

ショチカルコの名前の由来はナワトル語で「花の家のある場所」を意味し、花を表すXochi(tl)と家を表すcal(i)と場所にあることを意味する接尾辞である-coでできた語であるが、最近の研究でショチカルコが繁栄した当時は、「鳥が捕らわれた場所」[2]というような意味の名前であると考えられ、同じ文字は同時期のカカシュトラでもみられ商人を表す文字を描く一方で他の土地の名前を描く基壇[3]があって、ショチカルコとカカシュトラの両者に商取引のような関係があったことを示している。

ショチカルコには、先古典期の終末すなわち紀元前200年ごろからの居住が見られるが、本格的な発展期を迎えたのはテオティワカンの滅亡後で、650年頃から急速に発展し、メキシコ中央高原で最も影響力を持つセンターに成長した。

ショチカルコが建設された場所の中央を占めるのは、セロ・ショチカルコとして知られる山であってその山頂には公共建造物があり、その周囲にはテラスと一般住民の居住区が広がっている。地形をたくみに利用して比高差130mの丘陵を中腹から幾重にも階段状に整地して、そのテラスの側面に噴き石を行い、塁壁が入れ子状に連なって壁や空堀として効果的な防御としている。そういったテラスの段差は3mから高いところで5mに達する場所もある。
くさずり ピーエ ヒロイ 翼を広げて ソーセージ ピータ シプレ ハサップ オット ラビア ジョイ サザンカ 建久お スノー ロシア スマク ハッピー フレイン さけかす ストリーム ドザーサイ グアム 白龍支 イーシー ソート ティング マシンガン コンタ レンズ プリクラ くす最新 ジャス ヤマイモ ワンパタハ 空の庭 ビックス フリーフ フレーム タグトゥ ライダー キネシス テキサ らくがん イーユー マイア バチカン フォトレ ディナー いしけんご ハクビ

セロ・ショチカルコとその周辺の丘陵がこの時期の主要なセンターが発展する場所の一つとして選ばれたのは、丘の周りに予想される外部からの攻撃を防ぐために堀や溝や城壁を築くのに都合のよい自然の要害であったことに起因していると考えられる。細心の設計のもとに城壁を築いて土を動かしたり積み重ねたりなどの造成を行い、「城壁」部分は石灰層で被われさまざまな多彩色のモチーフが描かれた。ショチカルコの城壁は丘全体に巡らされショチカルコ自体を遠方から観察した場合に一つの巨大なピラミッドのようにみせている。

ショチカルコの中核部へつながる通路はごくわずかであり守るのに適した構造になっていた。ショチカルコの本体のある丘の頂上は漆喰で塗り堅められた中央広場があり主神殿である「羽毛の蛇(すなわちケツァルコアトル)の神殿」をはじめ多くの神殿、蒸気風呂や三つの球戯場、円形の祭壇や独立して建てられた石碑[4]がある。ショチカルコには、膨大な量の石彫があり、古典期終末期の社会的政治的宗教的な構造について推測する良好な資料となっている。とくに文字が刻まれた石碑は、マヤのように王の姿や名前と歴史が刻まれていると考えられている。象形文字はサポテカやマヤにもみられるような点と棒を用いた数表記、トルテカやミシュテカ、後にはアステカで使われるようになる動物や独特な表現で象形的に事物を表した日付けの文字などが刻まれている。

ショチカルコの編年はエドワルド・ノゲーラ(Nogera,E.)、ケネス・ハース(Hirth,K)、アン・サイファース(A.Cyphers)によって行われた調査で先古典期から後古典期にわたる居住によって推定されるが、最近の調査、すなわち1984?86年及び1991?94年にショチカルコ丘陵で行われた調査でショチカルコの居住は放射性炭素年代測定により古典期の終末に属することがあきらかになった。

2009年02月23日

台湾語

台湾語(中国語: 台灣話、白話字:Tâi-oân-oē、拼音:Táiwānhuà、注音符号:??? ?? ????。または台語、白話字:Tâi-gí、拼音:Táiyǔ、注音符号:??? ?ˇ)もしくはホーロー語(中国語: 河洛話、白話字:Hō-ló-oē)は、台湾人口の74.5%以上を話者とする言語[1]。台湾の客家人、外省人の中にもこれを日常的に使っている人も多く、原住民族もこれを理解できる人もいる。台湾語の母語話者は河洛 (ホーロー) と呼ばれる(台湾語より台語と呼ぶ方が一般的)。また、同じ台湾語でも場所により若干の発音や語の違いがある。例を挙げれば、台語のことを台北近辺では Tâi-gí、台中近辺では Tâi-gú と発音するが、その違いは他の言語の方言に比べて大きなものではなく、相互理解に支障を来たすものでもない。標準的な方言と見做されているものは、台湾で最も早くから開けた地区の一つの台南市とその周辺の台南方言であり、教材の多くはこの方言を用いている。

また、台湾語は歴史的に、日本統治時代、国民党統治時代に、政治的に抑圧され、長らく制度的に認められてこなかったため、台湾語を話す大多数の人にとって、台語は日常生活において慣れていくものであり、下記のような学問としての知識は持ち合わせていないことが多い。
ロマネ スラッ ピロシキ 地上SEO 舌切雀 かばいろ ルート マリーゴ ムービン ムレザー カミング モダン フェド セット ライト ヨーガ プティカル パワポ フェイ ひちく 芽ばえ ムーブ 紅い川 キワノ カルソン まだい リリース ヨーソロー ズンバ トアル ヒアシンス ザフスタン おたる あまおう ピンチ カシス ハウス ジョホール スプライ ロード スハマ キャット レディ 葦の恋 セラミック バジル ダーツ 承平上位 チムニ プラセ

台湾語は、台湾で話されている閩南語(Bân-lâm-gú、Hokkien)から派生、独自の発展を遂げた変種である。伝統的に、台湾語は 中国語という大きなグループ内の方言と見なされていたが、近年はシナ・チベット語族あるいはシナ諸語の独立した言語とされることもある。 "言語か方言か?" という区別にはよくあることであるが、台湾語をどう位置づけるかは当人の政治観に大きく依拠している(Identification of the varieties of Chineseを参照)。

伝統的な分類に従えば、以下のような階層構造で表される:

シナ・チベット語族 ⊃ 中国語 ⊃ 閩語⊃ 閩南語⊃ 台湾語
台湾人の大半は17世紀 から 19世紀にかけて福建から移住してきた人たちの言葉が基礎になって広まったため、台湾語は閩語の南部方言である閩南語に似ている。台湾語の語彙は、口語音系と文語音系とに分けられる。文語音系は中古漢語に基づくものであり、10世紀に閩語にて発達し、台湾へは知識人がもたらしたものである。この台湾文語音系にもとづく文語文はかつて公的な場面で用いられたが、現在は一部台湾語読みの仏教典、一部古典文芸などに残るのみで、ほぼ廃れている。

盧溢棋や、李勤岸(ハーバード大学、Lí Khîn-hoā?、Tavokan Khîn-hoā?)などの研究者による最近の業績は王育徳や許極燉(台湾通用言語日本協會會長)などの研究者による以前の研究に基づくものだが、深層構造(ノーム・チョムスキー参照)の一部を オーストロネシア語やタイ語語族の口語基礎語彙と関連づける試みがなされるに至っている。そのような主張には伝統的なシナ語学界からは異論が提起されているが、台湾語を漢語方言と決め付けるシナ語学界の定理もまた根拠が薄弱である。台湾語が漢語方言なのか、漢語(シナ諸語)系の独立言語なのか、あるいは異なる語族の混合言語なのか、まだ結論は出ていない。

音韻論
音韻的には、台湾語は非常に発達した連続変調(tone sandhi)規則を持つ声調言語である。一音節には頭子音、母音、末子音が含まれる。

子音
子音には次のようなものがある。

有声 無声/
無気 無声/
有気 鼻音
s
歯茎硬口蓋音 j ch chh
両唇音 b p ph m
歯音 l t th n
軟口蓋音 g k kh ng h

母音
母音には次のようなものがあり、方式によって表記に違いがある。

POJ(白話字) a e i o o? u m ng
TLPA a e i o oo u m ng
PSDB(普實台文) a e i oi o u m ng

白話字の母音 o は非円唇後舌半狭母音で、あいまい母音(シュワー)と類似している。それとは対照的に、? は円唇後舌半広母音で、やや口を開いて唇をすぼめる。日本統治時代の台湾語仮名では「ヲ」、「オ」で表記されている。

加えて、二重母音や三重母音が多くある(例えばiau)。 母音 mやngは鼻音で、単独で音節となりうる。それ以外の母音は鼻音ではない。非鼻音は鼻音にすることができる。例えば、aは非鼻音だが、a?は同じ母音の鼻音化音である。

声調
すべての音節に声調がある。声調は7つある。伝統的に1?8と数字で表され、第2声と第6声とは同じ声調を表す。例えば、音節aを声調つきで示すと次のようになる:

a; 高平
á; 降下
à; 低平
ah; 低止
â; 上昇
第6声は第2声と同じ。
ā; 中平
a?h; 高止
伝統的な言語分析では、声調を5段階で記述し(声調を表す番号の右の数字は、レベル5が最も高く、レベル1が最も低いことを示す)、それを中古漢語の声調と結び付けている(下記では、その中古漢語の声調名が示されている):

44; 陰平
51; 上聲
31; 陰去
3; 陰入
24; 陽平
第2声と同じ。
33; 陽去
5; 陽入
また、(一例として) 参考文献にあるWi-vun Taiffalo Chiung'の現代音韻分析を参照。上記の分類に異議を唱えている。

第4声と第8声では、末子音にh、p、t、kが生じる。末子音がp、t、kの場合、その音節が鼻音になることは不可能であり、これらはそれぞれ、他の声調の鼻子音m、n、ngに対応している。 sia?hのように、第4声や第8声での末子音がhの場合は、その音節が鼻音になることが可能である。

軽声は、動詞の行為の拡張や名詞句の終わりなどを示す際に現れる。軽声を表記する際は、前の音節とdouble dash (--)を介して表記することが多い。

台湾北部で話される方言では、第4声と第8声の区別がない。いずれも第4声として発音され、後述する連続変調規則も第4声の規則が適用される。

音節構造
音節は、子音の間に母音(単母音 or 二重母音 or 三重母音)が必要である。全ての子音は語頭に生じうる。子音p, t, k, m, n, ng(hを含める人もいる)は音節末に生じうる。故に、ngiau("かゆみ(をかく)")やthng("スープ")などが可能である。第二の例では鼻音ngが音節主音である。

連続変調
台湾語には非常に多くの連続変調規則がある。発話の際、最後に発音される音節のみがこの規則の適用を受けない。'発話'とは何かという問題は、この言語の研究では熱いトピックである。概略的に言えば、発話は語、句、短文と考えられうる。下記の連続変調規則の記述は伝統的な説明方法にのっとったものであり、教育上記憶しやすい配列をなしている。影響を受ける音節(つまり、発語の最後の音節以外の全て)の声調がどのように変調するかは下記の通りである。

元の声調が第5声ならば、第7声で発音せよ。
元の声調が第7声ならば、第3声で発音せよ。
元の声調が第3声ならば、第2声で発音せよ。
元の声調が第2声ならば、第1声で発音せよ。
元の声調が第1声ならば、第7声で発音せよ。
元の声調が第8声で語末子音がhでなければ(つまりp、t、kであれば)、第4声で発音せよ。
元の声調が第4声で語末子音がhでなければ(つまりp、t、kであれば)、第8声で発音せよ。
元の声調が第8声で語末子音がhであれば、第3声で発音せよ。
元の声調が第4声で語末子音がhであれば、第2声で発音せよ。
音節末が鼻音の場合は? See the work by Tiu? Jū-hông and Wi-vun Taiffalo Chiung in the 参考文献, and the work by cheng_robert.html Robert L. Cheng (Tē? Liông-úi) of the University of Hawaii, for modern linguistic approaches to tones and tone sandhi in Taiwanese.

語彙
台湾語の語彙の出自について概観する。近年の言語研究によれば、(by Robert L. Cheng and Chin-An Li, for example) わずかの例外 (およそ10% - 25%) を除き、大半の台湾語の語は他の中国語方言と同系語であるとしている。一方で、同系語であるかどうかよく分からない、漢字形態素による語構成であるとはっきり断定することのできないものも存在する。例えば、有名なものでchhit-th?(チットヲ、遊びに行く)がある。その中のいくつかは、最近南方のシナ諸語の周縁言語グループであるタイ・カダイ諸語、ミャオ・ヤオ諸語、オーストロアジア語族、オーストロネシア語族などとの対照研究がすすみ、そうした非漢語系言語の残存であるという指摘もなされている。 こうした漢語起源ではない語をあえて漢字で表記する場合は、意味や発音の似た漢字を当てて表記したり、日本における国字のように新たに創作した独自の漢字で表記する場合もある。最近の台湾語文字化運動では、明らかな漢語部分は漢字で、そうでないものはローマ字で混合表記する「漢羅」という表記方法が提唱され、いくつかの出版物も出ている。

なお、台湾語の語彙には日本統治時代に流入した日本語起源の語彙がいくつかある。たとえば、ou-ji-sang=「おじさん」。しかし日本語と違って軽蔑のニュアンスは少ない。と言うのは昭和前期において「おじさん」は単に中年男性をさす言葉であり、それがそのまま台湾に移入されたのに対し、平成における日本の「おじさん」は意味が変化して軽蔑的な意を含むようになったため、両者の意味がずれてしまったのである; ou-ba-sang=「おばさん」も同様だが、この語は台湾では家政婦的な意味合いとして使われることが多い。これは植民地時代、日本人家庭において家政婦を「おばさん」と呼んだ事に端を発していると思われる。もっとも、平成の日本語においても、「おじさん」「おばさん」という言い方が必ずしも軽蔑の意を含んでいることはなく、敬意を込めて使用されることもあることは勿論である。; khong-nia-kuh=「こんにゃく」; lou-lai-bah=「ドライバー」;ou-leng=「おでん」など、また単語ではなくフレーズ単位の kan-ke-nai-ioh(関係ないよ)、u-sou-ba-ka-lih(嘘ばかり)なども、現在でも口語で多用されている。原住民語から入った語彙は、o-gio(愛玉子)などの植物名のほかに、pa-tai(頭がぼけていて、愚かな状態。アミス語ma-patai=死ぬ。ただしタガログ語patayから日本語を通じて入った可能性あり); i-a(母親。アミス語wina)などがある。a-sa-bu-luh(めちゃくちゃな様子)などは日本語の音に似せた「台湾製日本語」と考えられているが、再検討の余地がある。

"我々"を表す特別な代名詞: 阮(goán)と咱(lán)
普通話と同様に、台湾語では"我々"を表すのに2通りの代名詞がある。阮(goán)はいわゆる"除外の一人称複数 [聞き手を含まない]"であり、咱(lán)は"包括の一人称複数 [聞き手を含む]"である。これは英語のそれに似ている。"Let's go!" (聞き手を含む: 咱[lán]で翻訳)と"Let us go!" (聞き手を含まない: 阮[goán]で翻訳)。包括の咱(lán)は、丁寧さや連帯感を表現する際に使われることがある。

よく使われる言い回し
kaN-e the-khi-chiah「敢子提去食」=勇気のあるヤツが取って食べてしまう。蛮勇を奮ったものが勝つ。

[文法
台湾語の文法は中国南部の諸方言に似ており、客家語 や 広東語と親戚関係にある。語順は普通話のように「主語 動詞 目的語」 が典型的だが、「主語 目的語 動詞」や 受動態 (語順は 「目的語 主語 動詞」) は不変化詞を伴うと可能である。例えば簡単な文「私は君を抱く」を例に取ろう。 含まれる語はgoá ("私")、phō ("抱く")、lí ("君")である。

主語 動詞 目的語 (標準的語順)
標準的語順の文はGoá phō lí ("私は君を抱っこする")となる。

主語 kā 目的語 動詞
ほぼ同じ意味で異なる語順の文は Goá kā lí phōである。多少 "I take you and hold" や "I get to you and hold"のような意味が含まれる。

目的語 hō? 主語 動詞 (受動態)
そして、Lí hō? goá phō同じ意味を表すが、受動態で"You allow yourself to be held by me" や "You make yourself available for my holding"のような意味を含む。

まとめ
これを元により複雑な文を作ることができる。Goá kā chúi hō? lí lim ("I give water for you to drink": chúiは "water"、lim は"to drink"の意味)。 この記事では、文法に関してごくわずかしか例を挙げることができない。台湾語の統語論についての言語学の研究は、いまだに検討を要する学問のトピックである。

文字と正書法
現在、台湾語の表記における正書法というものは存在しない。これまで多くの研究者によってさまざまな台湾語の表記方法が考案・改良されてきたが、正書法を定めるには至っていない。

中国語方言圏では歴史的に共通語としての文語が存在し、表記はその文語文が模範とされ、話し言葉としての中国語方言をそのまま表記するということはなかった。言文一致が定着した現在でも表記は普通話基調の口語文である。これは台湾でも同様であり、台湾語の話者が実生活において台湾語を表記する必然性はないのである。

台湾語の表記は主に研究・教育の目的で行なわれ、発音符号としての面が重視されたため、非漢字形態素をどう表記するかという問題よりも、台湾語の発音をいかに正確かつ明瞭に表記するかについて多く議論されてきた。近年は台湾語の地位向上により、台湾語の文書を意識的に作成するケースが見られ、純粋に正書法という観点で台湾語の表記法を模索する動きも見られるようになった。

漢字
台湾語を構成する形態素の大半は漢字形態素であり、基本的に台湾語を表記する文字は漢字である。然し語彙の項で前述したように、漢字でどう表記すべきかはっきりしない語があり、その場合は発音の似た漢字を借用して当て字としたり、意味の同じ字を訓読みしたり、新たに方言字を創作したりしたが、近年はローマ字で表記して漢字とローマ字の混ぜ書きを行なう試みもなされている。

ローマ字
台湾語をローマ字でどのように表記するかについてはこれまで様々な方法が考案され、現在でも更なる改良が進んでいる。台湾語のローマ字表記法の中で最も代表的なのは白話字(Pe?h-ōe-jī, POJ)である(「教会ローマ字」とも呼ばれている)。白話字は長老派教会宣教師によって考案され、後に台湾基督長老教会(長老派教団)によって改良された。この表記法は19世紀後半以降、台湾語の表記に積極的に用いられた。ウィキペディアの台湾語版[1]もこの白話字で表記されている。

白話字で用いる伝統的な文字は以下の通りである:

a b ch chh e g h i j k kh l m n ng o o. p ph s t th (ts) u

現在は使われていないtsを含めて、全部で24種類である。(tsは現在のchのうち、後に母音のiが立たない場合に用いられていた。)これらに加えて、鼻音を表すn(上添字のn、大文字のNで表記することもある)及び声調符号を付記する。

白話字以外のローマ文字ベースの表記法としては、TLPA(Taiwanese Language Phonetic Alphabet)、通用ピン音、TMSS(Taiwanese Modern Spelling System)なども提唱されたが、現状では白話字が優勢で、中華民国教育部も2006年、白話字に従ったローマ字表記法を公布し、教育の場で普及が図られている。ただし、まだまだ白話字に習熟した教育者が不足していたり、保守的勢力の妨害などもあって、その見通しは必ずしも明るくはない。

仮名文字・日本語
日本の植民地時代には台湾総督府によって台湾語の発音を片仮名(台湾語仮名)で付記することが試みられた。そのため、現在も少数意見で、仮名文字を応用する意見もある。また、高砂族や本省人の高齢者には日本語を母語とするものも存在する。

注音符号
普通話のために考案された注音符号を拡張して、台湾語の音声を表記できるようにする方法も考案されている。

言語コード
閩南語はRFC 3066においてzh-min-nanとして登録されている。台湾語はzh-min-nan-TWで表記されている。

Unicode問題
前述したように、既存の漢字で表記するのが困難な台湾語を、任意に創作した漢字で表記することがある。こうした文字はUnicode(及びそれに対応するISO/IEC 10606: 国際文字セット)には収録されていないので、電算処理するときに問題が生じる。

白話字の場合は、声調符号を含め、ほとんど問題なくUnicodeで表記できる。2004年6月以前は、口を広く開ける母音o(oの右上に点を付けて表現する)がエンコードされていなかった。回避策として、中黒(U+00B7)を使うか、組み合わせ文字の上点(U+0307)を使っていた。現在、前者はウィキペディアの台湾語版の表記において使われている。これらは理想からは程遠いので、1997年からISO-IEC 10646を担当するISO/IECワーキンググループ(ISO/IEC JTC 1/SC 2/WG2)に対し、新しい組み合わせ文字上右点をエンコードするよう提案され、現在U+0358として正式に割り当てられている。フォントでのサポートが今後期待されている。

台湾語の標記に必要な拡張注音符号もUnicodeにU+31A0からU+31B7にエンコードされたが、フォントの普及はこれからである。

社会言語学的側面
地域によるバリエーション
大まかに区分すると、台湾語には大まかにいって台南方言、台北方言、台中方言(台中周辺)、彰化県の港町・鹿港)に典型的に見られる海口(ハイカウ)諸方言、北部(北東)沿岸方言(特に宜蘭県の宜蘭方言)などのバリエーションが存在する。 制度化されていないこともあって、今のところ「標準的な台湾語」というものは存在しないが、強いて言えば、歴史的に古く、台湾語も日常的に優勢な台南方言が、事実上の標準の地位を占めつつある。また、台東で使われている方言は、音韻体系からいって白話字に最も近い。 台北方言の一部は第八声が無いことと、一部の母音に交換が起こること(例えば'i'と'u'、'e'と'oe')が特徴である。 台中方言は'i'と'u'の中間の母音があり、これを'ö'で表記することがある。 宜蘭方言は母音'ng'が'uiN'に変化することが特徴である。

流暢さ
台湾人の大部分は、人によってその流暢さに大きな違いがあるものの、北京語と台湾語の両方を使用する事ができる。そのどちらを用いるかは状況によって異なるが、一般には公式の場では北京語を、非公式の場では台湾語を用いている。

台湾語は基本的には日常的に台湾すべての地域で話されているが、北京語が特に台北のような都市部でより多く用いられているのに対し、台湾語は地方部、特に南部の地方でより好まれる傾向にある。また年齢層別に見た場合では、老年層が台湾語を、若年層が北京語をそれぞれより多く用いる傾向に有る。

特有の芸術形式
七字仔(Chhit-jī-á)は各行が七言からなる詩格である。

また、「歌仔戯(koa-á-hì)("台湾オペラ")」という台湾語で表現するミュージカルもあり、多くの歴史の物語が台本化されている。

布袋戯(pò?-tē-hì, 「台湾人形劇」))という人形劇もある。布袋戯は子供だけではなく大人も見る人形劇として有名、台湾では日本の文楽のような存在とも言えよう。1970年代にテレビでドラマのように毎日放送され、97%の視聴率を記録した。国民の過熱を緩和するため放送禁止される事態となった。今もケーブルテレビ専門のチャンネルがあり、毎日一日中放送している。2000年頃に映画「聖石伝説[2]」も製作され、日本でも日本版が販売されている。

概念化と歴史
18世紀から19世紀の台湾では、戦乱が続き人心は乱れた。政府(中国及び日本)に対する蜂起に加え、民族同士の戦いも多かった。通常、交戦国は、使っている言語ごとに同盟を組んだ。歴史上、客家語と台湾語を使う民族との間、それらと台湾原住民との間、さらに泉州弁を使う民族と漳州弁を使う民族との間の戦いがあったと記されている。

その後20世紀になってから、台湾語の概念化は、ほとんどの中国語のどの変種よりも大きな物議をかもした。というのも、1949年に台湾に来た外省人と、既に台湾にいた大部分の台湾人(本省人)の間に明確な差が見られたからである。これら二つのグループ間における政治的、言語的な溝はほとんど埋まったにもかかわらず、台湾語に関する政治的問題は、他の中国語の変種にかかる問題よりも、大きな議論となり、また微妙な問題となった。

台湾語の歴史と、標準中国語である北方語(北京語、Mandarin)との相互関係は複雑で、常に議論の的になっている。台湾語をどう呼ぶかという呼称すらも議論の対象となっている。一部の者は、台湾語という呼称は、北京語、客家語、台湾原住民族語等のその他の言語の存在を過少評価する印象を与えるとして、反対している。そういう人たちの多くは、これを中国福建省で使われる言語の変種だとする観点から、閩南語、又は福建語 (Hokkien) という呼称の方が良いと主張する。しかし、福建省では客家語やショー語など異なる言語も存在するので、閩南語という呼称もまた福建省の多様性を無視するものとなっている。一方で、台湾は中国ではないとする観点から、閩南語、福建語という呼称は適切ではないとして、また台湾の他の言語集団にも配慮して、より中立的な名称としてホーロー語、あるいは台湾ホーロー語と呼ぶことが増えている。

政治
中国国民党政権は、北京官話(北京語)を「国語」と呼んで、公用語としていた為、1980年代までは、学校での台湾語使用を禁止や媒体での台湾語の放送の量を制限していた。本省人の若者の間で台湾語よりも「国語」(北京官話)が支配的になっている理由としては教育やこれらの国策の影響がある。ただし現在のところ、台湾南部では、まだまだ民間社会のL領域(非公式な場)においては台湾語による会話のほうが「国語」より優勢である。

教育においては相変わらず国語(北京官話)が支配的だが、台湾語、客家語、又は原住民族の言語の教育が必要だとの声が次第に高まってきている。

北京語では無く台湾語を使うという事は、国民党独裁体制への抵抗や台湾独立運動の一環として始まったが、民主化が定着しつつある現在では政治と言語のつながりはかつてほど強くはない。民進党陣営や独立派にとっても国民党陣営にとっても、台湾の政治において、北京語と台湾語の並行使用は、既に当たり前の現実になっている為である。

たとえば、外省人である宋楚瑜は、国民党の要職に就いた当初、メディアコントロールの責任者(新聞局長)を務め、台湾語をはじめとする母語の使用を制限していた。しかし1980年代の民主化以降は、半公式的な場で台湾語を積極的に使おうとする最初の外省人政治家となった。彼を皮切りに、ネイティブスピーカーでなく、台湾独立に反対する政治家も、台湾語を頻繁に使うケースが続々と現れた。

逆に、台湾本土派の政治家でも、現在では公的な場で北京語を用いることも少なくない。たとえば、陳水扁前中華民国総統は、就任式や外国からの接客といった公的な場では北京語を用いることも多かった。しかし、公的な場面でも選挙戦や民進党関係の集会では台湾語を多用し、新年のあいさつのような非公式あるいは親密さを表す場では台湾語をよく用いていた。

現在では、外省人の二世、三世でも、母語並みに台湾語を操る人も増えている。また、日本統治時代以前から、台湾語が台湾社会で人口で優勢だったこともあって、台湾語を母語としない客家人の間でも、商売の必要性などから台湾語が流暢なものも多かった。逆に現在ではホーロー人であっても、都市中産層出身だと台湾語が下手な人も増えている。つまり、「台湾語はホーロー人の言語で、北京語は外省人の言語」などといった言語とエスニックグループの関連付けも崩れつつある。

しかしながら、このように台湾社会の現実では、エスニックグループに関係なく、いろんな言語を混在して使うケースが増えているにもかかわらず、台湾語と北京語の間の関係については、いまだに政治的な対立点にもなっている。

一般的に、保守的な国民党陣営は、国民党一党支配時代以来の北京語を優先する政策を堅持し、北京語は異なるエスニックグループ間の共通言語としての役割を果たすべきだと主張する傾向がある。この陣営はまた、国語や公用語は一つであるべきだと考えている。

それに対して、民進党陣営や台湾独立派は、台湾語をはじめとしたすべての台湾の言語が同等に尊重されるべきだと主張する傾向が強い。民進党は、1986年の成立時点から「多言語主義」を綱領の中でも主張してきた。

事実、2000年に民進党が政権を獲得してからは、国民党時代の「単一国語主義」ではなく、多言語政策が進められている。客家語を使う客家テレビや原住民族諸語も使う原住民族テレビなどが次々に成立し、政府の広報CMでも、台湾語や客家語も多用されるようになった。現在では台湾語だけを台湾の土着言語として重視するのではなく、客家語や原住民族諸語も国語あるいは公用語にすべきだという意見が強まっている。民進党政権(当時)は台湾のすべての言語を尊重して北京語独占を排除する「国家言語法」制定を推進しているが、保守的な勢力はこれに強く抵抗している。

その他の意味

フォルモサ語(先住民語)
英語では、台湾語(Taiwanese Languages)とは、台湾島の先住民が使う十数種類のオーストロネシア語を指すことがときどきある。混同を避けるために、先住民語のことをフォルモサ語(Formosan Languages)ということもある。また、現在の台南市付近に居住し、16世紀にオランダ人と接触を持ったシラヤ(シデイア)人の言語を、フォルモサ語という場合もある。アルファベット表記によるシラヤ語聖書、オランダ語との対訳語彙集がオランダで発見されている他、シラヤ人によって書かれたシラヤ語の土地契約書(シンカン文書)が現代に伝わっている。

台湾華語
台湾語という言葉が、誤って北京官話(マンダリン)系の言語のことを指して使われることもある。現在の多くの言語学者が、この北京官話系の台湾方言のことを台湾国語と呼んでいるほか、台湾華語という呼び名も台湾の留学生向け語学教育機関を中心に使われている[2]。

台湾華語は、中華民国(台湾の政府)の事実上の公式言語であり、台湾人の約8割が流暢に話すことができる。ただ、台湾華語は、語彙、文法および発音において、中華人民共和国の(普通話)とはいくぶん異なる。その違いは、イギリス英語とアメリカ英語の違いと同程度のものである。

台湾語
差別撤廃の表現として、台湾で普及しているまたは台湾特有の全ての言語を包括して台湾語と呼ぶべきだと提唱している人もいる。つまり、ここでの台湾語とは前述した客家語や先住民語などが含まれる。

2009年02月06日

スプリガン (漫画)

超古代、現代を遥かに上回る科学力を持つ文明が存在したといわれている。ある遺跡から発掘された金属板に、その超古代文明の人々からと思われる警告が記されていた。「我々の残した遺産を、悪しき者より守れ」と。そのメッセージに従い、アーカム財団は、彼らの遺産(オーパーツ)をあらゆる権力から守り、封印、破壊する組織を結成した。アーカム財団のトップエージェントは、スプリガンと呼ばれて恐れられる。
すぎやま バイオ ファイト チグラフィ 寛和 トリタン ビストロ クウェート スペシャル トップス スラバ フェン サイネ 赤ひげ ピペット スクワレ ミイアエラ スイッチ ソース ルーター シティー ハイオネロ メキシコ メグマ オルゴール フーファ タンデム フェース 冬の南風 セイフ バイポ ブラウニー フランネ スマス ギャンブル おーたむ バース 古都の ケワキ ルーイク レット リングアウ ド小法師 ズンイン レングス バック テクニ スラブ 見返り NO1ラン

この漫画作品は、高校生にしてアーカム財団のスプリガンの一人、御神苗優の活躍を中心としたSF・オカルトアクションである。

エピソード一覧
本作品は、単独で完結する複数のエピソードから構成されている。連載の関係から、1つのエピソードは五話前後、もしくは長編で一話というものが多くなっている。

「炎蛇の章」
「仮面伝説の章」
「ノアの方舟篇」
「狂戦士の章」
「帰らずの森篇」
「水晶の髑髏」
「龍脈地図 御神苗抹殺計画」
「混乱の塔」
「獣人伝承」
「終末計画」
「聖杯」
「忘却王国」
「降臨」
「不死密売」
「修学旅行」
「精霊惑星」
「獣人伝承2」
「人工進化」
「聖櫃」
「賢者の石」
「山岳ピラミッド」
「龍脈地図 最終話 炎蛇再来」
「GOLD RUSH」 ※単行本未収録
「FIRST MISSION」 ※単行本未収録

登場人物一覧
スプリガン
アーカム財団に所属するS級エージェント達。 名前の由来は財宝を守る妖精スプリガンから。

御神苗優(おみなえ ゆう)
日本の高校生にして、アーカム財団S級エージェント・スプリガンの一人。本来の30倍以上のパワーを出せる装甲服のような精神感応金属(オリハルコン)製の防護スーツ「A・M(アーマード・マッスル)スーツ」と、硬度を高めて精製されたオリハルコン製のナイフを装備し、体術、銃器の扱いと、鍛えぬかれたサバイバル能力で「超古代文明の遺物を保護または破壊する」という任務を成功させて来た実績を持つ。明るくバイタリティに溢れる性格だが、その過去には血生臭い陰惨な影がちらつく。その潜在能力には様々な人間が期待をかけている。愛用銃は「SIG P226」。
ジャン・ジャックモンド
スプリガンの一人。フランス人。長い金髪を後ろで結んでいる美青年。気性の荒い性格で、優とよくケンカをするがいわゆる「喧嘩するほど仲が良い」関係と周囲に見なされているため、度々チームを組んでいる。優に「俺がいなけりゃてめーは○○回死んでるぜ!」と言うのが決まり文句。生身で体術とも呼べない力技を駆使して戦うが、銃弾すらよける運動神経とスピード、軽く人間を吹き飛ばせる怪力の持ち主。実は獣人(ライカンスロープ)で、自分の血を見ると理性が保てなくなり変身、手当たり次第に対象を破壊する。しかし朧との闘いの中でそれが裏目に出て指摘された後に敗北、その事を教訓にして変身に頼らず冷静に対処する事を心がけるようになり、COSMOS戦では金谷の術中に嵌らず善戦した。愛用銃はスパス12。フランスの私娼街に育ち、ティアにスプリガンとしてスカウトされた。
朧(おぼろ)
スプリガンの一人。見た目は長髪、長身の中国人青年だが本名も年齢も不詳で謎の多い人物。中国では「ロン」と呼ばれていた。世界最高の氣法師にして、中国武術の達人。優の師匠でもある。物静かで礼儀正しいが、独特の体術はジャンの攻撃すらかわし、氣功によって相手を一撃で戦闘不能にする。なお、将来強くなる見込みのある敵には止めを刺さず、叩きのめすにとどめ、更に強くなった敵と再び闘うことを、己の修行としている。自身を鍛錬のみならず教える事にも長けている。作中ではほぼ無敵の存在で、大部隊が配備された軍事基地に単独で乗り込み、素手で壊滅状態にする事も容易くやってのける。優の秘めたる能力には度々驚かされており、「本当の力を発揮した優には敵わない」とさえ考えている。そのため表面に見える以上に優に目をかけており、その力を引き出すことで、己が秘かに定めている最終目標をも達成しようとしている。
一度大衆の前で自分の修行を見られ、頬を赤くしたことがある。
朧の最終目標とは「仙人」になることである。本作中で「仙人」になるとは、己の氣と地球生命体の氣を完全に一体化させることによって、永遠の存在になる事とされ、朧はそのために、常に強者と戦うことで己の氣を高めようとしている。物語終盤でジャンをも倒し、その次に十分に成長した優と真剣勝負を行う。朧は優を追い詰めながら、A・Mスーツに頼っている限りそれ以上は成長しないと諭し、それに応じた優は更に高次元の戦闘能力に目覚め、朧に初めて打撃を当てる。それから優は、朧と同じ体術と、朧を数段上回るスピードで攻勢をかけ、それに押された朧は封印していた「軽氣功」を使用してしまう。「軽氣功」とは自重を木の葉の如く軽くし、相手の攻撃の手ごたえを全く無くして無効化させるという気功術で、その超人技は改めて優を戦慄させた。結局戦いは、決着の時に朧が気功を封じたため引き分けとなるが、朧は「軽氣功」を使ってしまった事を己の未熟とし、再び修行し直さなければならないと語る。そして、その後さらなる死闘が待ち受ける優への激励の言葉のようなものを残し、山深くへ消える。その後、最終エピソードでの優達とアーカムとの決戦を陰ながら手助けして以降は、外伝的作品にも出演していない。
ティア・フラット
スプリガンの一人で通称は「魔女」。紙に書いた魔法陣から幻影の魔獣を召喚する「コーリングビースト」や、空間を捻じ曲げる術など、様々な魔術を操る。大人っぽい美女だが、アーカム財団とは古くから関係があるらしい。ちなみに、「フラット」はミドルネームで、ファミリーネームは「アーカム」。つまり、アーカム財団創設者であるT・F・アーカムその人。彼女は約300年前、森に眠る大魔術師マーリンと出会い、彼から超古代文明の遺産が後の世に混乱を引き起こす危険がある事を聞かされる。ティアはマーリンから魔術を伝授され、マーリンの意思を継いでアーカム財団を創設する。時が経ち、別の人間に財団代表の座を譲ってからも、自らは魔術によって延命し、現在に至るまでスプリガンとしてアーカムの活動をサポートしていた。ちなみに「船長」ことスティーヴ・フォスターとは、恋人同士だったようである。最終話ではガーナム退陣後の混乱を収拾するため、再び財団代表に就任する。
パーカップ・ラムディ
元スプリガンで通称は『ドクター』。「神の手を持つ男」と呼ばれ、かつては裏の世界でナンバーワンの殺し屋として恐れられた。殺し屋という過去を持ちながらいかなる経緯かは不明だが、生命に対し強い倫理観を持つ。心霊手術の能力を持ち、相手の患部を切開することなく腕を潜り込ませ、腫瘍や内臓器官のみを取り出す事が出来る他、朧に匹敵する武術と体術を誇る。医術全般のエキスパートであるラムディは関連の古文書を多く所蔵しており、その古代文明の知識を頼って優たちスプリガンが、しばしばラムディが開いているアジアの無医村の診療所を訪ねる。「じーさん」と呼ばれると怒る。

2009年01月22日

南京事件(なんきんじけん)

南京事件(なんきんじけん)は、1927年(昭和2年)3月、蒋介石の国民革命軍が南京を占領した際に起きた日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件。

1927年(昭和2年)3月24日早朝、国民軍総司令蒋介石の北伐軍が南京に入城した。その軍長は程潜であった[1]。当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日1人、英2人、米1人、伊1人、仏1人、丁1人の死者、2人の行方不明者が出た。この際、日本領事館も襲撃され、暴行や掠奪、領事夫人が陵辱されるという事態となり、領事館を引き上げ軍艦に収容された[2]。下関に停泊中のアメリカ・イギリス両軍は午後3時40分頃より城内に艦砲射撃を開始[3]、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。日本の陸戦隊も25日朝に上陸した。砲弾は1時間余りで約200発が撃ち込まれ、日本領事館近傍にも着弾した。多数の中国の軍民が砲撃で死傷したとされている。この事件はあえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す共産党側の計画的策謀といわれている。その後の中国の進路や日本の対中政策を大きく変えることになった。

蒋介石は、29日に九江より上海に来て、暴行兵を処罰すること、上海の治安を確保すること、排外主義を目的としないことなどの内容を声明で発表した。しかし、日英米仏伊五カ国の公使が関係指揮官及び兵士の厳罰、蒋介石の文書による謝罪、外国人の生命財産に対する保障、人的物的被害の賠償を共同して要求したところ、外交部長・陳友仁は責任の一部が不平等条約の存在にあるとし、紛糾した。

また、南京事件の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に共産党とソ連の策動があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。その結果、4月6日には張作霖によりソ連大使館を目的とした各国公使館区域の捜索が行われ、ソ連人23人を含む74人が逮捕された[4]。押収された極秘文書の中に次のような内容の「訓令」があったと総司令部が発表した。その内容とは、外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令、短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというものである[5]。
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4月9日、ソ連は中国に対し国交断絶を伝えた。4月12日、南京の国民革命軍総指令・蒋介石は、上海に戒厳令を布告した。いわゆる、四・一二反共クーデター(上海クーデター)である。この際、共産党指導者90名余りと共産主義者とみなされた人々が処刑された[6]。また、英国は、南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月、ソ連と断交した。(アルコス事件参考。)

武漢政府が容共政策放棄を声明し、南京に国民統一政府が組織されると、1928年(昭和3年)4月にアメリカ、8月にイギリス、10月にフランスとイタリア、1929年(昭和4年)4月に日本と、それぞれ協定を結んで外交的には南京事件が解決した。

この事件は日本の外交政策を大きく変えるきっかけとなった。1924年(大正13年)の加藤高明内閣の外相・幣原喜重郎は、それまでの対中政策をやや修正し、幣原三原則を基本とした親善政策である「幣原外交」を展開していた。外務省は事件当初から、森岡領事から受けた、共産党の計画による組織的な排外暴動であるとの報告により、南京事件が蒋介石の失脚をねらう過激分子によるものと判断していたが、列強が強行策をとれば蒋介石の敵を利するものだとして、幣原は一貫して不干渉政策をとり、列強を説得した。しかし、南京事件や漢口事件などにより国民の対中感情が悪化、幣原外交は「軟弱外交」として批判された。金融恐慌の中、事件直後の4月若槻禮次郎内閣が総辞職すると、田中義一が首相と外相を兼任、かねてから中国より東北三省を切り離すことを主張していた外務政務次官・森恪がその政策の背後にあり、日本の対中外交は一変することになった。

当事件は10年後の南京事件に隠れがちである。保守派の憲法学者である青山武憲の歴史認識に反発した中国の留学生が「日本人は歴史、特に南京事件をまったく知らない」と発言したのに対し「じゃあ、君の言う南京事件はどっちを指すの?」と質問したところ留学生は有効な答えが出来なかったという。

2009年01月15日

リボヌクレオチドレダクターゼ阻害薬


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ヒドロキシウレア(HU、ハイドレア)がこれに含まれる。ヌクレオチドをデオキシヌクレオチドとする反応を阻害する。鎌状赤血球や頭頸部腫瘍、骨髄増殖性疾患で適応がある。二次性白血病の原因となったり、放射線増感薬(特に頭頸部癌)として用いられることがある。

ヌクレオチドアナログ
プリンアナログ
チオグアニン、リン酸フルダラビン(F-Ara-A、フルダラ)、クラドリビン(2-CdA、ロイスタチン)が含まれる。リン酸フルダラビンはCLLやFLに効果があるとされている。しかし日本においてはFLに対して適応がなくクラドリビンが用いられる。
ピリミジンアナログ
シタラビン(Ara-C、キロサイド)やゲムシタビン(GEM、ジェムザール)が含まれる。シタラビンはAMLの寛解導入や維持に用いられ、シクロホスファミドとシナジーを形成する。またシタラビンもBBBを通過するので中枢神経DLBCLで用いることがある。ゲムシタビンは膵臓癌の治療で用いられる。

アルキル化剤
アルキル化剤は細胞内条件下で、種々の電気陰性基をアルキル化することでその名称がつけられた。アルキル化剤は直接DNAを攻撃して二重鎖のグアニル塩基同士を架橋することで腫瘍の増殖を停止させる。架橋によりDNAは一本鎖になったり分離することが出来なくなる。二重鎖が解けることはDNAの複製に必須の為、細胞はもはや分裂することができなくなる。

重要なアルキル化剤の代表として、ナイトロジェンマスタード (nitrogen mustard)、白金製剤、シクロホスファミド、ニトロソウレア類などがある。

マスタード薬
シクロホスファミド(CY,エンドキサン),メルファラン(L-PAM,アルケラン),チオテパ(TEPA、テスパミン)などがあげられる。これらはアルキル基を有する求電子性分子であり,このアルキル基がDNAの求核性部位と間に共有結合を形成する。これによりDNAを周期非特異的に傷害する。最もよく使われるのがシクロホスファミドであるが,用量規定毒性は骨髄抑制である。有名な副作用に出血性膀胱炎があるが,メスナ(ウロミテキサン)にて予防がある程度可能である。またシクロホスファミドをはじめとするアルキル化薬は免疫抑制薬として用いられることもある。この場合は抗腫瘍薬としてよりも低用量である。
ニトロソウレア類
ダカルバシン(DTIC,ダカルバシン)やプロカルバシン(PCZ,塩酸プロカルバシン)などが含まれる。いずれもホジキンリンパ腫の治療でよく用いられる。ラニムスチン(サイメリン)は慢性骨髄性白血症や骨髄線維症で用いられることがある。ニトロソウレア類は中枢神経の移行もよく脳腫瘍に用いられることがある。

白金製剤
シスプラチン(CDDP,ブリプラチン),カルボプラチン(CBDCA,パラプラチン),オキサリプラチン(L-OHP,エルプラット)などが含まれる。シスプラチンの用量規定因子は腎毒性である。この他に悪心,嘔吐といった消化管症状もよく見られる。カルボプラチンはシスプラチンの腎毒性を軽減し,抗腫瘍効果も同等であることからシスプラチンに置き換わって使用される傾向がある。オキサリプラチンは大腸直腸癌に有効性が示されている。有名な副作用に末梢神経障害がありFOLFOXの患者でよく診られる。
抗腫瘍性抗生物質
1953年に梅沢浜夫が発見したザルコマシシンが最初の抗がん性抗生物質 (antitumour antibiotic) であり、DNAポリメラーゼを阻害する。いろいろ異なる種類があるが、おもに2つの方法で細胞分裂を阻止する。
DNAに結合して分離できないようにする。
酵素を抑止してRNA合成を阻害する。
マイトマイシンC、アントラサイクリン系のドキソルビシン、エピルビシン、ダウノルビシン、その他ブレオマイシンなどがある。ブレオマイシンの用量規定因子は肺であり,肺線維症を引き起こす。ブレオマイシンとマイトマイシンCがアルキル化剤として考えられている。

トポイソメラーゼ阻害薬
?型トポイソメラーゼは1本鎖DNAのらせん制御,?型トポイソメラーゼは2本鎖DNAのらせん制御をすると考えられており,作用が複雑で多目的な働きをする?型トポイソメラーゼを阻害したほうが効果があると考えられている。

カンプトテシンとその誘導体
最も有名なのはイリノテカン(CPT-11 カンプト)とノギテカン(ハイカムチン)である。これらは1型トポイソメラーゼを阻害する。イリノテカンの用量規定因子は消化器と骨髄である。特に下痢は致死的になることある。FOLFIRIではロペミンを常用することがしばしばある。骨髄抑制も非常に強い。
アントラサイクリン系
アントラサイクリン系はDNA構造を直接破壊する。化学療法で最も細胞障害性が高いもののひとつであると考えている。ドキソルビシン(DER,ADR,アドリアシン)が含まれる。DNA内へ挿入(インターカレーション)することによって?型トポイソメラーゼ阻害を行う。心筋内でフリーラジカル産出を促し,心筋細胞膜を破壊,うっ血性心不全を招くことが有名である。DXR投与中は100mg/m2ごとに心電図、200mg/m2ごとに心エコーを実施し心毒性をチェックする。
エピポドフィロトキシン系
アントラサイクリン系と同様に?型トポイソメラーゼ阻害を行う。エトポシド(VP-16,ETP,ラステッド,ベプシド)が含まれる。一般にシスプラチンといったアルキル化薬と?型トポイソメラーゼ阻害薬を併用するとシナジーをえる。理由は傷害されたDNAを修復するにはトポイソメラーゼの作用が必要(ポリメラーゼとの相互作用のため)なのだが,そこまでブロックされるとアポトーシスされやすいということである。
キノロン系薬物
レボフロキサシン(クラビット)やシプロフロキサシン(シプロキサン)が含まれる。原核細胞の?型トポイソメラーゼ(これをDNAジャイレースという)と?型トポイソメラーゼを阻害し細菌を傷害する。一応はグラム陽性菌には?型トポイソメラーゼ,グラム陰性菌には?型トポイソメラーゼ阻害が効いていると考えられている。用量依存の抗菌薬なので一日一回投与のほうが効果的である。

微小管重合阻害薬
ビンカアルカロイド系
これらの抗がん性アルカロイドは植物より産生され、微小管の形成を抑止することで細胞分裂を妨害する。これらは微小管の重合を阻害する。ビンブラスチン(VLB,ビンブラスチン,エクザール)やビンクリスチン(VCR,オンコビン)、ビンデシン(VDS、フォルデシン)が含まれる。ビンブラスチンの用量規定因子は骨髄抑制であるが悪心,嘔吐といった消化器症状もよく出る。ビンクリスチンは悪性リンパ腫や小児白血病でよく用いられる薬だがこちらの用量規定因子は末梢ニューロパチーである。末梢神経の微小管の障害によって起こるとされている(軸索輸送など)。骨髄抑制はビンブラスチンより軽度であるが,末梢ニューロパチー-はよく起こる。特に麻痺性イレウス,便秘は必発である。
コルヒチン
痛風の予兆の際に用いる薬だがその作用機序は不明である。微小管重合を阻害することは分かっている。

微小管脱重合阻害薬
タキサン系
パクリタキセル(PTX,TAX,タキソール)やドセタキセル(DTX,TXT,タキソテール)が含まれる。微小管が重合した状態でより安定にすることで細胞の有糸分裂を停止させアポトーシスへ導く。パクリタキセルの用量規定因子は末梢ニューロパチー-であり,溶剤によるアレルギー反応が多く,デキサメサゾンや抗ヒスタミン薬で予防可能である。ドセタキセルはパクリタキセルよりニューロパチーは起しにくいが強い骨髄抑制と体液貯留がおこる。用量規定因子は骨髄抑制である。

分子標的薬
トラスツズマブ、リツキシマブ、イマチニブ、ゲフィチニブ、ボルテゾミブ、エルロチニブなどがある。

ホルモン療法
いくつかの悪性腫瘍はホルモン療法に反応する。

ステロイド(よく使われるのはデキサメサゾン (dexamethasone))は(脳腫瘍において)腫瘍の増殖と腫瘍関連した脳浮腫を防止する。
前立腺がんはフィナステリド (w:finasteride) に感受性がある。フィナステリドは、テストステロンを5α-ヒドロキシテストステロン(男性ホルモンの活性本体)へ代謝する5α-還元酵素を阻害する薬剤である。但し、耐性を生じることがある。
乳がんはしばしばエストロゲンやプロゲステロン受容体陽性であり、同ホルモンの生成阻害(アロマターゼ阻害剤 aromatase inhibitors)やホルモン作用の拮抗薬(タモキシフェンtamoxifen)が補助療法として利用される。
ほかにも、ホルモン感受性腫瘍が存在するが作用機序は不明である。