2月5日には伝習隊の歩兵400名が八王子方面に脱走(後に大鳥圭介軍に合流する)。また2月7日夜、旧幕府兵の一部(歩兵第11・12連隊)が脱走。これらは歩兵頭古屋作左衛門に統率されて同月末、羽生陣屋(埼玉県羽生市)に1800人が結集し、3月8日には下野国簗田(栃木県足利市梁田町)で東征軍と戦って敗れた[10](古屋はのちに今井信郎らと衝鋒隊を結成し、東北戦争・箱館戦争に従軍する)。
また、新選組の近藤勇・土方歳三らも甲陽鎮撫隊と称して、甲州街道を進撃し、甲府城を占拠して東征軍を迎撃しようと試みるが、3月6日勝沼で東征軍と戦闘して敗れ、下総流山(千葉県流山市)へ転戦した[11]。
これらの暴発は、陸軍総裁勝海舟の暗黙の承認や支援を得て行われており、いずれも兵数・装備の質から東征軍には全く歯が立たないことを見越したうえで出撃していた。恭順への不満派の江戸からの排除という目的もあったと思われる。
13代将軍徳川家定正室として江戸城大奥の総責任者であった天璋院(近衛敬子)は、薩摩の出身で島津斉彬の養女であった縁から、また明治天皇の叔母にあたる14代将軍徳川家茂正室の静寛院宮(和宮親子内親王)も東征大総督有栖川宮とかつて婚約者であった縁から、それぞれ東征軍との縁故があり、また上野寛永寺には前年に京都から入山した輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)がおり、藁にもすがる思いの慶喜はこれらの人物を通じて、東征軍に対し助命ならびに徳川家存続の歎願を立て続けに出している。
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正月21日、静寛院は慶喜の歎願書に橋本実麗・実梁父子宛の自筆歎願書を添え、侍女の土御門藤子を使者として遣わした[12]。東海道先鋒総督の橋本実梁は、2月1日に在陣中の桑名(三重県桑名市)でこの書状を受け取る。しかし、参謀西郷隆盛はいかに和宮からの歎願であったとしても所詮は賊徒からの申し分であるとして歯牙にもかけず[8]、知らせを受けた京都の大久保もまた同意見であった[9]。土御門藤子はやむなく上京し、6日に入京、議定長谷信篤・参与中院通富らに静寛院の歎願を訴えた結果、万里小路博房から岩倉具視へも伝わり、16日橋本実麗に対して口頭書ながら徳川家存続の内諾を得[13]、18日に京都を発った藤子は2月30日に江戸へ戻り、静寛院に復命している。
いっぽう輪王寺宮公現法親王は2月21日、江戸を発って東海道を西に上り、3月7日には駿府で大総督有栖川宮熾仁親王と対面し、慶喜の謝罪状と自身の歎願書を差し出したが、参謀西郷隆盛・林通顕らがかえって甲陽鎮撫隊による抗戦を厳しく咎め、12日には大総督宮から歎願不採用が申し下された。
また天璋院は慶喜個人に対してはあまり好感情を持っていなかったが、徳川家存続には熱心であり、「薩州隊長人々」に宛てて歎願書を記し[14]、また3月11日に東征軍へ使者として老女を遣わしている[15]。この使者は13日に帰城しているが、ほとんど影響を与えなかったようである[16]。
これらの歎願の多くは結果的には却下されることが多かったが、大総督有栖川宮や参謀西郷隆盛などに何らかの心理的影響を与えた可能性もあり[17]、小説やドラマなどでは積極的にエピソードとして採用されている。